マラソンは、島国で世界に触れる機会である by 『マラソンと日本人』

書評

日本におけるマラソン文化の歴史をまとめた『マラソンと日本人』(武田 薫)が良書だったので紹介します。日本人にとってマラソンとか何か?を考えさせられる一冊です。

日本人はなぜ走ってきたかーーかつての少数エリートに代わり、いまは大量の愛好家ランナーたちが街を走る。マラソンを速く走ることは、日本人が世界に出ていく手段だった。いまは大勢で走ることが世界にでていく手段ということなのかもしれない。少なくとも、島国で世界に触れる機会である。

日本で最初のマラソン大会

今から約100年前、神戸で日本初のマラソン大会が行われました。そういえば神戸に「日本マラソン発祥の地」の記念碑がありましたね。

日本で最初のマラソンレースは1909年3月21日、神戸ー大阪間の20マイルで行われた。1マイル=約1.6キロだから、約32キロのレースだ。スタート地点は湊川埋立地、ゴールは新淀川西成大橋東橋。

出場者は、400人余りの応募者から選抜された20名の選手。当時はランニングシューズや「マラソン足袋」などはなく、わらじを履いて走ったそうです。レースは、岡山県の在郷軍人の金子長之助が2時間10分54秒で優勝しています。平均ペースはキロ4分というとこですね。

日本初のマラソン大会が開催されてから、もうすぐ100年。『マラソンと日本人』を読むと、日本の近代マラソンの変遷を「大衆化」「国際化」「プロ化」の3つの視点でとらえることができます。

マラソンの大衆化

当初は一部のエリートランナーしか出場できなかったマラソン大会ですが、今や誰もが参加でき、毎週のように全国各地で開催されるようになりました。

戦後、1947年には「丸亀マラソン」が、1953年には「勝田マラソン」が始まりますが、ランニング愛好家が広く参加できる大衆マラソンは「青梅マラソン」が最初だと言います。

大衆マラソンの原点と言われる「青梅マラソン」の旗揚げは1967年3月、「円谷選手と走ろう」というキャッチフレーズの下に企画され、参加者は30キロの部は182人、高校10キロの部が155人で、合わせて337人だった。

ちなみにランニング専門誌『ランナーズ』が初めて売り出されたのは、「青梅マラソン」の会場だったそうです。今年で創刊40周年を迎えるんですね。

76年の「青梅マラソン」会場で売り出されたのが、ランニング愛好家向けの専門誌『ランナーズ』の創刊号だった。これはランニングスキのカメラマンと編集者の負債が手作りで始めた雑誌で、発行と同時に講習会なども開催しながら、ランニングブームをじわじわ押し上げていった。

マラソンの国際化

ここ数年、男女マラソンの低迷が叫ばれている日本のマラソンですが、かつてはトップレベルの選手を世界に送り出してきました。

戦前は、1936年のベルリンオリンピックでフルマラソンの金メダルを獲得した、孫基禎が有名です。孫基禎は、同大会でフルマラソンの銅メダルに輝いた南昇竜と同様に、朝鮮半島出身の日本代表でした。本人にしてみたら、手放しで喜べなかったわけですね。

日本のマラソンがついにベルリンで結晶したと言ってよかったが、栄光は一瞬にして、植民地と宗主国の間の深い海溝に呑まれていく。表彰台に上がった孫基禎、南昇竜の二人がうつむいて「君が代」を聞く写真が残っている。にこやかな壇上の笑顔はごく最近のテレビ時代のアスリートの特徴である。それにしても、このときの二人の表情は内向的でその場の喝采からは浮き上がっている。

戦後間もなく、田中茂樹が「ボストンマラソン」で優勝を果たします。太平洋戦争で焦土なった日本から突如現れたマラソン選手に全米が驚きの声を上げました。

古橋は「フジヤマのトビウオ」と命名され、田中茂樹は「アトムボーイ」と呼ばれた。ボストン入りしてから、田中が被爆地の広島出身だということが現地では話題になっていた。大会前、田中は国防総省に呼ばれ、戦時中の日本の写真を見せられながら事情聴取を受けた。原爆投下の状況を聞き出すためだった。

田中がランニングシューズではなく、地下足袋を改良したゴム底の「マラソン足袋」を履いていたことも大いに話題になったと言います。

それから30年後、同じくボストンマラソンで瀬古利彦が優勝します。その後、ロンドンマラソンやシカゴマラソンなど、海外のメジャーなマラソン大会で優勝実績を残し「マラソン大国ニッポン」の土台を築き上げました。

マラソンのプロ化 

欧米でも日本でもそうですが、マラソンを含む陸上競技は、もともとアマチュアのスポーツでした。今でこそプロのマラソン選手は珍しくありませんが、昔は学生や軍人など、走ることを本業としない選手が大多数を占めていました。日本初のマラソン大会で優勝した金子長之助も在郷軍人でしたからね。

80年代になるとマラソンの世界でもプロ化が進み、海外のメジャー大会では、ドーピング対策やペースメーカー、出場料、賞金などを明確化する動きがありました。

日本のマラソン界の反応はいかに?

日本陸連の掲げるアマチュアリズムの旗印の下では、国内大会は賞金や出場料を提示できず、公然と国際競争に参加できなかった。

ペースメーカーについても、起用しながら公表しないというダブルスタンダードが長年続いたと言います。

日本陸連は2003年「福岡国際マラソン」まで、ペースメーカーの存在を公にしなかった。「競技者への助力の禁止」というアマチュア時代のルール解釈から抜け出せなかったが、現実問題として、ペースメーカーが存在しなければ記録は伸びず、記録が落ちれば大会の格が下がり、格が下がれば一流選手を招待できないという悪循環に陥った。

賞金についても、一流選手を引きつけるために長らく非公式に賞金を払っていたようです。国内で賞金が公表されたのは、なんと「東京マラソン」が初めてだったと言います。

日本の大会で初めて賞金を公表した「東京マラソン」も、2013年、男女の記録水準、参加者数、歴史、スポンサーなどの条件をクリアしてWMM(注:ワールド・マラソン・メジャーズ=世界6大マラソン)に加わった。

まとめ

以上、『マラソンと日本人』(武田 薫)の紹介でした。日本の長距離陸上界の歴史が知りたい人は、ぜひ読んでみてください。

アマゾンで『マラソンと日本人』のレビューと最新価格をチェックする

【目次】

  • プロローグ
  • 第1章 走り出した日本人
  • 第2章 金栗四三――学生の大志と箱根駅伝
  • 第3章 孫基禎――「内鮮一体」の表裏
  • 第4章 〈ボストンマラソン〉と戦後復興
  • 第5章 円谷幸吉と東京オリンピック
  • 第6章 祭りのあとの空白――ポスト君原健二
  • 第7章 瀬古利彦の栄光と挫折
  • 第8章 中山竹通のたった独りの反乱
  • 第9章 女子マラソンと夏のメダル
  • 第10章 ケニア参入と日本の内向化
  • 第11章 川内優輝――鈍足のエリートと〈東京マラソン〉
  • エピローグ

この記事をシェアする

よく読まれている記事

  1. ガーミンGPS時計を買ったら、最初にやるべき「ガーミンコネクト」設定まとめ
  2. 【2017年版】海外の人気マラソン大会まとめ:憧れのレースに出場するための第一歩
  3. シューズで二股かけるなら、アシックス「DynaFlyte(ダイナフライト)」がおすすめ
  4. 世界6大マラソンを制覇して「Six Star Finisher」になろう
  5. レース中にお腹がゆるくなる「ランナー下痢」の原因と対策について